独り善がりなノベルゲー雑記

仮説:考察という行為について+オマケ

以前数回だけ真面目に考察しようと思った時に感じたこと

  • 単語や言葉の経歴は個人によって異なるため細部のニュアンスまで書き手と読み手が完全に一致することはほぼ不可能である
  • 個人間のみでも脳内から言語化する際にズレが生じないことはほぼ無いので書き手から言語化を通じて媒体、それから読み手という過程が増えるほどズレは大きくなる 下記図示 /は変換される際に現れるズレ、即ちノイズを表す

書き手:脳内言語⇒/⇒外界言語=媒体 こちらの方がズレは少ない

読み手:媒体⇒/⇒外界言語⇒/⇒脳内言語 同じ単語でも個人によって受け取り方が違う

  • 文字を使った媒体を用いる際、通例書き手は直接描写することを美徳としないのでぼかした描写や言葉に込められた真意や背景まで思慮に入れることが前提である

とかわかったふうな風を吹かしてるけどいざ読解となると訳わからんくなって混乱する 理解と実践は別物って事だよね多分 これが「知識を知恵に変える」ということなんですかね 俺はこの言葉を「(他人の)知識を(自分の)知恵に還元する」って解釈してるけど

以下これを書きながら思ったこと

あやふやで曖昧なものって一度具体的なもの―例えば文字や口で発したりする―として形にしなければすぐ忘れるけどこれって何故だろう 恐らくは脳内で形造らずなんとなく考えたことは自分ですら何となくとしか考えていないために価値のないものとして無意識的に認識されるから? うーんこれもさっき結論が出てた筈なのに考察云々を書いている内にもうそれを忘れてしまった 科学技術が発達して思考過程を自動で筆記してくれるデバイスとか開発されないかな個人的に思考は結果よりそれに辿り着いた過程の方が重要だと思ってるので可能ならば過程も全て書き留めたいけど頭の出来がお粗末だからすぐ忘れちゃうのよね